There is no ordinary. すべてが特別だから。

img_0804わたしがいける(でもいけてない)花は 葉っぱや季節の枝ものをふんだんに使うのが特徴のひとつ。

花も葉っぱも茎も棘も、、、それぞれ美しい。 主役も脇役もない。

葉っぱがすきだ。というひと最近増えてるなあ。

 

今はきっと空前の植物ブーム。植物、葉っぱたちとお家で一緒に暮らしたがるひとも多い。

*雑誌 BRTUSUで2015.9と2016.4と1年の間で2回も植物を特集しているくらいですもの。

 

moonStruck花遊び生徒さんのひとりが言うには

葉っぱをたくさんいけたいのに 葉っぱがダイスキなのに

なかなか葉っぱがいけられず なぜかいつも花ばかりの作品に仕上がっていて。

どうしてだろう??

3年もかかってわかったことは

それまでずっと見てきた雑誌や本に載っている

アレンジメントの写真が花ばかりのものがほとんどで

知らず知らずに深く深くインプットされてしまっていたらしいと。

 

その呪縛を解くのに3年かかるとは。恐るべし。

自分が望んでいるのにすきなことなのに情報に振り回され
できないなんてえええええ。

この生徒さんは気づけたからまだよかったけれど

気づかずに一生 自分の意思とは裏腹な選択をし続けたりするんだろうなあ。

 

そういえば。

40年くらい自分のことをさみしがり屋だと思っていた。心底さみしがっていたから

言動もそっちよりになるわけで

友人たちもわたしをさみしがり屋と認定していた。

ある日 あれれ?  なんだなんだ、全然さみしくない。 さみしがり屋じゃないー!

と気づいた。さみしがり屋だと思い込んでいただけだった。

 

なんだったんだろう

あのさみしくてさみしくていつも何かを欠いているような感じは。

いつも何かで満たそうとしていたあの刹那的なおもいは。

 

面白い記事を見つけた。(かなり抜粋)

 数学者でもあり天文学者でもあったケトレーは、

社会には最大多数を占める、平均的属性を備えた人間である「平均人」が存在し、

社会の重心に相当することを発見、1835年にそのことを発表しました。

こうして「実際には存在していない」ながら、あたかも「物事の中心である」かのように

振る舞う「平均」は誕生しました。

 

この平均というのがまたまた曲者なんですね。

平均的 でうれしかったりよろこんだりしたり

普通に に満足しなかったりつまらなかったり。

 

普通なんてこの世界には存在しないのだけれど。

あなたの普通は誰かの特別。

誰かの特別はわたしの日常。

わたしの非日常はあなたのふつう。だったりするから。

 

平均があるから 普通 と言う言葉があるから

上と下ができる。比較や差別が生じる。普通じゃないと排除される。

ひとのお家の芝生がより青く見える。

情報に操作されやすい、、、、。

 

本当に厄介なことだ。

 

でも大丈夫。

厄介なことを厄介だと知ってしまえば選択の余地ができ

対処することも回避することも可能になってくるから。

 

すべてはうまくいっているってこと。(無理やりかなあ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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