Nowhere is now + here.         いまここはどこにもないしどこにでもある。

「いまここ」に囚われ過ぎてしまうと
真の「いまここ」を逃してしまう。
それは一瞬一瞬で移り変わるから。

その連なりが永遠なのだから

その瞬間に永遠がある。

瞬間に存在する永遠を感じる事ができれば

ひとはもっと自由なのだろう。

the eternity is  the repetation of one moment.

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明日は102歳で天国に召されたハルエおばあちゃんの49日。

「新聞記者だったというおばあちゃん最愛のおじいちゃんは
終戦間際に戦死して第二次世界大戦後の激動の日本で女ひとり
ふたりの子どもを育てあげ自立し自由に生き抜いた女性。

どこにでもある嫁姑の確執。
私は母への遠慮から
おばあちゃんとは
一定の距離を保つ感じでここまでずっと。

施設から病院に移っての数ヶ月
母は毎日2回
おばあちゃんのところに。

もしかしたら母がいちばんかなしんでいるのかもしれない。

3週間くらい前に
母と交替しごはんを食べさせに
病院に通った時は
(そう!ごはんをきちんと口から食べていた!)
まだまだきっと大丈夫だなあ。と安心して
仙台を離れたのだけれど。

おばあちゃんに花を届ける度
(母も庭の花を届けていたから
いつも花がおばあちゃんの側に。)
おばあちゃんの顔や手を撫でて
じーっとおばあちゃんを見ていた。
ほとんど骨と皮のちいさなおばあちゃんを。
眠っていることが多かったけど
目を覚まし目が合うと
とても愛らしい笑顔でうなずく。
わたしが誰かはわかっていなかったかもしれないけれど。

その笑顔のおかげか
看護師さんからはいつもあたたかく
接していただいていた。

続く」

ブログにアップしていた記事の続きをここに。

 

おばあちゃんの最も強烈な記憶に残る言葉は

「花は枯れるから嫌い」

「孫の面倒を見るために生きているわけではない。」← これは母から聞いた。

のふたつ。

決して媚びない奔放で強い女性。そう生きるのは楽ではない。

相当の覚悟が必要だと思うけれど

相当の覚悟が要るな。と感じるひとにはこの生き方は難しいだろう。

覚悟を覚悟と感じず生きるひと向き。

 

30代までのわたしはそういうおばあちゃんをきっとあまりすきではなかった。

だからといって嫌いではなかった。実際のところわたしはおばあちゃんに似ている。

今はもっとたくさん話しを聞きたかったと思う。

おじいちゃんのこと、花のこと、愛のこと、、、、、。

 

わたしなりに

「花は枯れるから嫌い」というおばあちゃんのおもいを感じてみる。

 

嫌いという言葉の裏側にはぴたりとすきというおもいが貼りついているのだろう。

羨望や嫉妬、到底太刀打ちできない真の美しさに打ちのめされていたのだろう。

おばあちゃんは美しさに対しての造詣が、執着が、とても深い。

確か90歳くらいまでウィッグをつけちいさな指先にすきな色を施していた。紫だったり。

ひじのしわが気になると言って半袖は着なかった。

救急病院に運ばれたとき指輪を外したくないとただをこねた。

 

誰もが花のようになりたい。というおもいがある。

おばあちやんは花の真の美しさを本能的に理解し拒絶し

自分だけのオリジナルな美の世界を純粋に生きたのだ。

 

花のその純粋な何の意図も感じることのない生の営みをまざまざと見せつけられ

枯れていくことにすら恐れをみじんも感じさせず

見るものを圧倒させるであろう愛の世界。

 

花とあまりに距離が近い(というか、同調している)わたしより

おばあちゃんの方が花を知っているのかもしれない。

「花は枯れるから嫌い」は 「花は枯れても美しいから嫌い」なのではないか。

 

そんなめくるめくおもいをめぐらせ

今日はお墓のお掃除をしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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